2012年11月25日 星期日

《每日新闻》中日民间对话:非黑既白的观点很幼稚,民主的进程需要一步一步来



隣国のホンネ・日中民間対話:第3回 白か黒か、未熟な世論 人権活動家・何培蓉さんに聞く

毎日新聞 2012年11月25日 東京朝刊
 第18回中国共産党大会が終わり、習近平(しゅうきんぺい)国家副主席(59)が新しい党総書記に選出された。貧富の格差や腐敗に対する抗議デモが各地で相次ぎ、国民の権利意識が高まる中、「習指導部」が政治改革にどこまで踏み込めるのか注目される。中国の「民主」はどうあるべきなのか。盲目の人権活動家、陳光誠(ちんこうせい)氏(41)=(注)=の脱出劇を支えた人権活動家、何培蓉(かばいよう)氏(41)に聞いた。【上海・隅俊之】

 ◇「陳氏の脱出劇、わなだと疑った。それくらい驚きだった」

 ◇村人たちの協力で

 −−厳重な監視下にあった陳氏の脱出は世界中が驚きました。
 何氏 私が脱出を知ったのは陳氏の兄からの1本のメールでした。「鳥が籠から出た」という内容でした。私はその時、北京で経済学者の郭玉閃(かくぎょくせん)氏と一緒にいたのですが、郭氏も兄からの電話で陳氏が脱出したということを知らされていました。それでも、私たちは最初はこうした情報を信じませんでした。当局が私たちをおびき出して、全員を捕まえるためのわなではと疑いました。それくらい驚くべきことだったのです。
 −−北京から車で迎えに行ったんですね。
 何氏 郭氏ら6人で4台を用意しました。しかし、陳氏は携帯電話も持っていない。どこにいるのかも分からない。兄と落ち合い、(彼が逃げた方向にある)一軒一軒の家を片っ端から訪ねて回りました。そして、彼がある公園にいると教えてもらったのです。詳しくは言えませんが、山東省臨沂(りんぎ)と済南(さいなん)の間です。ただ公園は広く、2時間捜しても見つかりませんでした。
 既に夜の12時。その時、一人の村民が私たちをじっと見ているのに気づきました。公園で陳氏をかくまっていた人です。彼はとても賢い。路上に止めていた私たちの車が北京ナンバーだと気づいたのです。最初、警戒して互いに無言で見つめ合っていましたが、彼が「北京から来たのか」と話しかけ、ついに陳氏に会うことができたのです。
 −−陳氏はどうやってその公園にたどり着いたのでしょう。
何氏 彼は脱出後、近隣の村にたどり着き、一軒一軒のドアをたたいて助けを求めました。村人はみな陳氏を知っていました。しかし、誰も(警察には)言いませんでした。その中の一人がかくまい、陳氏の兄に連絡したのです。村人たちはそこから、陳氏をできる限り遠い場所へと逃がしました。最後の場所が公園。それ以上は彼らになすすべはなく、私たちをひたすら待っていたのです。
 陳氏は昨年末、地元政府から監視状況を改善すると聞かされていました。しかし、今年1月の春節(旧正月)には家族だんらんもできず、逆に監視が厳しくなり、脱出を決意しました。約2カ月かけて準備したそうです。彼が脱出した後、村民も含めて20人以上の人々が、少なくとも警察には報告しない、という形で協力しました。みな面識はありません。でも程度の差こそあれ、多くの人々が(陳氏の脱出に)関わりたいと考えたのです。

 ◇劉、胡氏拘束で決意

 −−そもそも何がきっかけで人権問題に関心を持つようになったのですか。
 何氏 私はもともと通信大学で英語を教える教師で、ごく普通の中国人でした。ただ、08年の四川大地震の時、亡くなった学生のリストをインターネット上で公表し始めました。その時、校舎の手抜き工事を告発した人権活動家の譚作人(たんさくじん)氏が逮捕され、(共産党政権と異なる政見を持つ)「異議人士」に関心を抱くようになったのです。
 四川大地震は、中国人が他人のために社会的な義務や責任を負いたいと考えるようになった一つの契機でした。公民社会のスタートです。多くの人々がボランティアに参加した。一方で、この年はいろんなことが起きました。4月には(人権活動家の)胡佳(こか)氏が懲役刑を言い渡され、12月には(ノーベル平和賞を受賞した)劉暁波(りゅうぎょうは)氏が拘束された。2人の問題は影響がとても大きかった。その意味では、陳氏の身に起きたことは連続したものとして考えるべきでしょう。
 −−陳氏を支援しようと思った直接的な理由はなんですか。
何氏 胡氏の懲役刑です。(10年秋から)陳氏は軟禁生活を強いられ、医療も保障されず、家族も巻き添えになった。胡氏の妻は、もし胡氏が釈放されても、同じような厳しい生活が待っているのではないかと非常に心配していました。私は陳氏の支援について、政治的な問題として議論するのを避け、(個別の)人道的な観点からだと言ってきました。しかし、(すべての活動家が)こうした状況に陥ることを止めなければならないと考えたのです。だから陳氏を支援しました。

 ◇SNS、重要な役割

 −−中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」などをどう見ていますか。
 何氏 ソーシャルメディアの役割は非常に重要です。陳氏支援でも活用しました。陳氏が脱出する以前に、釈放を求めるキャンペーンを始めました。陳氏の似顔絵に「FREE CGC(『陳光誠』のアルファベット表記3字の頭文字)」と書いたシールを計4000枚作って、無料で配りました。代わりに、車を持っている人にはそのシールを貼った写真を送ってもらい、私の微博やツイッターにアップしたのです。写真を送ってくれたのは400人くらいですが、反響は大きかったです。日本や米国でも貼ってもらいました。

 ◇妥協の過程必要

 −−陳氏の一連の事件は、中国の公民意識の高まりに良い影響を与えたとも言えます。しかし、公民意識のあり方には、なお課題もあるように思います。
 何氏 その通りです。陳氏の事件は中国の公民社会の発展を推進するものですが、公民社会にはまだ幼稚な側面があります。世論が未熟だということです。例えば反日デモ。人々が政治に参加することは良い現象ですが、(略奪行為などの)過激行為が起きたことは世論が未熟な証拠です。ほかのデモも同じです。私は政府に何かを要求する時は、盛り上がっている時でも抑制的であるべきだと思うのです。今の中国の世論は、上がったら一直線に上がっていくだけ。長く続かない。らせんでもいいのです。長期的なものであってほしいのです。
 もう少し踏み込んで言えば、今の中国の世論は白か黒かの二つの選択しかない。支持か反対しかない。しかし、それでは広い選択肢を狭めることになってしまいます。民主の実現は、妥協するプロセスであるべきだと思うのです。単なる理想化ではないはずです。
 −−劉暁波氏も「中国の民主化は漸進的なものであるべきだ」と言っています。なぜでしょうか。
何氏 今の一党独裁体制の下では、成熟した公民意識というものがありません。人々は自分の権利が侵された状態にありますが、逆に言えば、どこまでが自分の権利なのかを理解できていないのです。専制政治の下では国民は従順です。しかし、少しでも緩くなると従順ではなくなる。強権政治がなくなった途端、一気に「暴民」に変わるのです。
 実際、(デモが容認されれば)人々は警察を襲い、過激行為に走ります。これはいずれも未熟な民意の表現です。だから私は時間をかけたプロセスが必要だと思っています。政府も少しずつ自由化への道を進んでいくべきです。今の中国ではデモをしていいかどうかは、一種のブラックボックスの中で決まっていて、法律に基づくものではありません。

 ◇民主化、一歩一歩進む

 −−共産党大会が終わりました。習近平総書記による指導部に何を期待しますか。
 何氏 次の10年間への期待は大きいです。何よりもまず憲法に基づく法制化の流れを強めてほしい。いま中国で起きているさまざまな問題は法律の枠内で解決されていません。中国には多くの法律の規定があり、その中には言論の自由もあります。しかし、私たちの実際の生活の中にはないのです。共産党による憲法の中にはあるのに、私たちに与えられていないのです。そこを変えてほしいのです。
 私の政治的な観点は中立です。「異議人士」であっても、当局側の人間であっても、彼らの間にいろんな観点や異なる見方が存在しても良いのです。ただし、中国の法律がまだまだ不健全であっても、さまざまな問題はその法律の範囲内で解決されるべきだと思います。そして、悪法に対しては、私たちは公民運動を発動することで反対していくべきだと考えています。
 −−そのような日は来るでしょうか。
 何氏 私は民主化へのプロセスを信じています。その日は必ず来ると思います。歴史的に見ても、改革開放が始まって以来、中国社会には大きな変化がありました。確かにそれは経済的な面がほとんどで、政治的な面では未熟です。それでも、私が活動を始めた08年から現在までに民主に対する社会意識が高まるのは速かったと思います。
重要なのは、政府自身が自ら変わるのではなく、人々がその変化を要求することだと思います。これを積み重ねていくことで最終的な目的に達すると思います。辛抱強く、急がず、一歩一歩進むこと。そうやって得た民主だけが確かなものになる。すぐに自由になって、1人1票を手にしても、誰に投票していいかさえ分からない。これは恐ろしいことです。演技をする政治屋が出てきて、もう一人の毛沢東になるかもしれない。あの時と同じ「熱狂」です。=次回は12月23日に掲載します。
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 ◇大衆の熱狂懸念

 「中国の公民意識の行き先をとても心配している」。何培蓉氏は終始笑顔だったが、約2時間半のインタビューの間、この言葉を何度か繰り返した。中国世論に白か黒かの二者択一しかなく、大衆が極端な考えだけに走っていくことへの懸念。インタビューの最後に「毛沢東の再来」に言及したのも、そうした懸念があったからだ。
 1966年に始まった文化大革命は、名目上は封建的な文化や資本主義の打倒が目的だったが、実際には毛沢東が大衆を利用した権力闘争だった。
 毛沢東がスローガンとして掲げた格差批判や官僚の特権化への批判は、多くの青少年たちをひきつけたが、多数の知識人らが投獄、殺害された。死者は1000万人に上るともされる。
 何氏が懸念するのは、文革時と同じように、大衆が理性を失った「熱狂」に走ることだ。尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる反日デモでは、デモ隊の一部はたがが外れたかのように暴徒化し、略奪や暴行を繰り広げた。ネットを中心とする今の中国世論は、一つの方向に流れると一気に暴走する。
 何氏の「政府の誤りは批判しても努力は評価したらいい。物事は公正に客観的、理性的にとらえるべきだ」という考え方は、これからの中国社会において最も重要なのではないかと感じた。【隅俊之】
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 (注)陳光誠氏
 「一人っ子政策」の一環として、当局が強制してきた人工中絶や不妊手術を告発。06年に器物損壊などで実刑判決を受けた。10年に出獄後も山東省の自宅に軟禁された。今年4月に脱出し、北京の米国大使館の保護を受けた。当初は中国国内にとどまることを希望していたが、米中両政府の話し合いの結果、5月に留学目的で米国に出国した。
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 ■人物略歴

 ◇何培蓉氏(He Peirong)

元英語教師。陳光誠氏脱出を助け、当局に拘束された。人権問題などについて、ツイッターや微博で積極発言を続けている。南京在住。